近世天草の歴史をふりかえるとき、富岡(富岡と呼ばれる以前は袋・福路)周辺はその話題の中心となる場所です。
(雑記) ちなみに、天正の合戦のあと、天草人の犠牲で建てた宇土城は、現在の熊本城内の宇土櫓として残っています。熊本城の石垣の石も知恵者の清正が「褒美を取らせる」として天草から船で運ばせます。あと一歩で届ける寸前になって、清正は前言をひるがえします。そのため、重くて持って戻るわけにいかなくて投げ捨てた石を、清正はまんまと築城に利用したという言い伝えもあります。 |
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以下は仏木坂の説明板より、 豊臣秀吉が天下統一をして間もなく、天草は小西行長の支配下となった。行長は宇土城の普請を志岐麟泉ら天草の5人衆に命ずるが、彼らはこれに従わない。怒った行長は、ここ志岐城の麟泉を攻めるが、もろくも破れて加藤清正に援軍を求める。これが俗にいう天正の天草合戦である。この折りのこと、乱戦の中、本戸城の客将木山弾正は、ひたすら清正を求めて、つき進み、ようやく巡り合って、ここ佛木坂での一騎打ちとなった。片や虎退治の勇将清正、対するは怪力無双の猛将弾正、組んず解れつの戦いは一刻に及ぶが、なかなか勝敗がつかない。あたりは、もはや黄昏れて視界もきかない。この時のこと駆けつけた弾正の家臣が「ご主君は何れに・・・」と声をかけると、生来吃り(どもり)の弾正は返事ができない。咄嗟に答えたのは組み敷かれていた清正である。「弾正は下に・・・」と。あわれ弾正は清正に馬乗りになっていながら家臣の槍で落命したという。 弾正の家臣は「上か下か?」と問い、吃りの弾正が応えられないままに、清正が「下だ」と機転良く答えたため、弾正は清正に敗れた・・とオニ管は伝え聞いています。 |
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(仏木坂のつづき) 仏木坂で清正に敗れた木山弾正の妻「お京の方」は本戸城(現在の城山公園)にたてこもり、加藤・小西等の連合軍に包囲されます。 本渡北小学校のすぐそばにある延慶寺の庭には、そのときの兜梅と伝えられている老木があります。写真のように、お京の方の恨みのせいか、上に伸びないで、地面にそって横に這ったような老木です。確かに花は咲きますが、梅の実は成りません。 |
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(兜梅のつづき) 横手五郎(よこてのごろう)と首掛(くびかけ)石 |
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