近世天草の歴史をふりかえるとき、富岡(富岡と呼ばれる以前は袋・福路)周辺はその話題の中心となる場所です。

 天草氏、大矢野氏、志岐氏をはじめとする天草5人衆が宇土城主小西行長の城普請手伝いの下知に逆らったことから、秀吉の逆鱗にふれ加藤(清正)、大村氏他の連合軍との戦いとなります。これが、天正17年(1589)の天草合戦です。


*写真中央付近が仏木坂(ぶっきざか)、道路は本町・苓北間の広域農道。この坂を上って下ると、春の桜並木のトンネル(管理人がビデオで収録し公開しています)があります。

平成15年春の桜のストリーミング映像へ

(雑記)

 ちなみに、天正の合戦のあと、天草人の犠牲で建てた宇土城は、現在の熊本城内の宇土櫓として残っています。熊本城の石垣の石も知恵者の清正が「褒美を取らせる」として天草から船で運ばせます。あと一歩で届ける寸前になって、清正は前言をひるがえします。そのため、重くて持って戻るわけにいかなくて投げ捨てた石を、清正はまんまと築城に利用したという言い伝えもあります。
 そんなわけで、「天草の人間は清正の菩提寺の本妙寺に、賽銭などあげる必要はない」とオニ管は祖父から伝え聞いています。


 小西、加藤らの連合軍は志岐麟泉の志岐城を攻めます。天草氏の本戸(本渡)城から志岐城の応援に繰り出した客将木山弾正は仏木坂で加藤清正との一騎打ちとなります。

以下は仏木坂の説明板より、

 豊臣秀吉が天下統一をして間もなく、天草は小西行長の支配下となった。行長は宇土城の普請を志岐麟泉ら天草の5人衆に命ずるが、彼らはこれに従わない。怒った行長は、ここ志岐城の麟泉を攻めるが、もろくも破れて加藤清正に援軍を求める。これが俗にいう天正の天草合戦である。この折りのこと、乱戦の中、本戸城の客将木山弾正は、ひたすら清正を求めて、つき進み、ようやく巡り合って、ここ佛木坂での一騎打ちとなった。片や虎退治の勇将清正、対するは怪力無双の猛将弾正、組んず解れつの戦いは一刻に及ぶが、なかなか勝敗がつかない。あたりは、もはや黄昏れて視界もきかない。この時のこと駆けつけた弾正の家臣が「ご主君は何れに・・・」と声をかけると、生来吃り(どもり)の弾正は返事ができない。咄嗟に答えたのは組み敷かれていた清正である。「弾正は下に・・・」と。あわれ弾正は清正に馬乗りになっていながら家臣の槍で落命したという。

弾正の家臣は「上か下か?」と問い、吃りの弾正が応えられないままに、清正が「下だ」と機転良く答えたため、弾正は清正に敗れた・・とオニ管は伝え聞いています。

(仏木坂のつづき)

 仏木坂で清正に敗れた木山弾正の妻「お京の方」は本戸城(現在の城山公園)にたてこもり、加藤・小西等の連合軍に包囲されます。

 お京の方は、鎧に身をかため、その長い黒髪を兜の中にまとめ、男装し、「われこそは木山弾正なり・・」と、城から馬に乗ってうってでます。それにつづいて城中の300余名の娘子軍もはちまきをしめてつづきます。仏木坂に弾正を倒したはずの加藤清正軍は、死んだはずの弾正が鬼神のように生き返ったと、肝をつぶして逃げようとしました。

 清正に追いすがり、恨みの太刀を振り下ろそうとしたとき、お京の方は傍らの梅の枝に兜を取られてしまいます。兜を取られたお京の方の黒髪がはらりと風になびき、それを見て、弾正に女がなりすましたとわかった清正軍に、あわれお京の方は討ち取られてしまいます。

 夫弾正の仇討ちを、梅の枝のために果たせなかったお京の方は、この梅の木に「憎き梅の枝かな。花は咲けども実はなるな」と恨みを残してこの世を去ります。

 本渡北小学校のすぐそばにある延慶寺の庭には、そのときの兜梅と伝えられている老木があります。写真のように、お京の方の恨みのせいか、上に伸びないで、地面にそって横に這ったような老木です。確かに花は咲きますが、梅の実は成りません。

 古来より、天草の女性は強いという一つのエピソードでもあります。そういえば管理人も山の神が一番こわいーってよく言ってます。(私も)
 「延慶寺の兜梅の梅干し」などという観光みやげももちろんありませんが、もしあったらどうします?


兜梅(かぶとうめ)・延慶寺
本渡市HPサイバー切支丹館より

(兜梅のつづき)

横手五郎(よこてのごろう)と首掛(くびかけ)石

 加藤清正が築城した熊本城内の月見櫓(やぐら)の西すみに首掛石と呼ばれる変わった形の石がありますが、これは築城の析に横手五郎という怪力無双(かいりきむそう)の若者が、花岡(はなおか)山から首にかけて運んできたものだと伝えられています。(横手は現在の熊本市横手町)
 実はこの五郎は、清正と戦って破れた天草氏の客将・木山弾正の遺児であったといわれ、父の仇を討つため土木人足に姿をかえて城内にまぎれ込んでいたのです。その事が発覚すると五郎は捕えられて古井戸に生埋めにされることになりました。しかし、上から大石を投げ入れても五郎は一つーつ受止めて返してしまうため、とうとう砂を入れられて生埋めにされたといわれています。