天草モンロー、天草モンロー主義

 サンフランシスコ講和条約が結ばれると、日本はアメリカ合衆国占領下から解放され自主独立の国家として、戦後復興に邁進する。当時、天草を日本から国家として独立させ天草国をつくろうとまじめに考えた天草人は少なくなかった。
貧乏な島、いわしとからいもといったイメージが強い天草であるが、実際には、農水産基盤はしっかりして、国内では自給自足が可能な数少ない地方である。
江戸時代300年の間に、日本の他の地域の人口増加が停滞しているとき、天草の人口は約10倍まで増加する。からいもといわしの力ばかりでなく、新田の開発、水産技術向上の努力など、天草人の英知と努力、バイタリティーが人口の増加を支えた。
「天草モンロー主義」は 天草人の自主独立の気概を表す言葉として用いられた。

 

<参考>

●モンロー主義 モンローしゅぎ

北アメリカ アメリカ合衆国  

 1923年12月,アメリカの第5代大統領モンローが教書で主張した外交政策。ナポレオン戦争後,本国スペインなどの束縛を破って次々と独立を達成しようとしていたラテン=アメリカに対し,ヨーロッパ諸国はこれを押さえ,再び植民地化しようとした。とくにメッテルニヒの率いる五国同盟は,圧力をかけた。これに対し合衆国のモンローは,南北アメリカ大陸に新しい植民地をもったり,旧い政治制度をもちこむことに反対し,一方アメリカ合衆国は,ヨーロッパの諸問題に介入しない旨の宣言(モンロー宣言)を発した。これは,その後長く,合衆国の伝統的な外交政策として受け継がれ,そのときどきのアメリカの利益にそうように拡張解釈が行われ,その国際的地位を高めた。ラテン=アメリカ諸国はこの宣言の力によって独立に成功したが,逆にアメリカ・イギリスへの経済的従属はすすんだ。