真っ赤に色づく唐蜜柑

 オランダ船とのかかわりもあった。松田唯雄薯『天草近代年譜』によれば、寛保元年(一七四一)和蘭陀船一隻、魚貫村沖へ漂来し、碇を入れて仮泊、寛政十一年(一七九九)六月十二日、紅毛(オランダ)船一隻、富岡(苓北町)の白岩崎沖合に漂着碇泊、短艇で上陸にかかったが、急報により牛深湊番所(長崎奉行所直轄)詰役小林周助が出役してこれに応対、さし止めに及び、六月十五目、長崎へ曳送っている。もっとも、発生比率では、唐船漂着が断然多い“渡来隻数も、時代が下るにしたがって双方とも隻数制限が厳しくなるのだが、年間、多いときで唐船百九十隻、オランダ船十二隻、少ないときで唐船十隻、オランダ船一隻の割合であった。ところで、江戸時代における異国船、主として唐船の天草漂着は、同年譜掲載分だけでも十五件に及んでいる。さらに郷土史家田中昭策氏は、古文書渉猟の結果、これに倍する実件数を把握しておられるという。

  とくに天草灘側の沿岸、牛深、魚貫崎、崎津、大江、高浜などにはしばしば異国船が漂着している。隠れ切支丹の里崎津村(河浦町)の程合墓地には、溺死したり病死したりした唐人水夫のなきがらが葬られた。現在では、ゴシック建築の尖頭に十字架を飾った天主堂が聳えている入江の対岸である。

 また、そのころ、漂着唐船が積んでいた密柑をもらって食べた大江村(天草町)の人々は、その美味しさに驚いた。さっそく、実生(みしょう)からその蜜柑の木を育てた。高浜村(天草町)の文化人庄屋上田宜珍(本名源作、宝暦五年〜文政十二年)の『天草嶋めぐり長歌』の一節に詠みこまれた大江の〃からたちばな〃とは、この蜜柑を指すのであろう。なお、歌詞の中に出てくる軍ケ浦(いくさがうら)は、中国の古い史書『図書編』に〃一国撒介烏刺〃として明記されており、明の時代から中国大陸と交流のあった港だといわれている。

 唐蜜柑は、現在、原木の中には根廻り一抱え、高さ十五メートルに及ぶものもある。その表皮が真っ赤だ。寒中の二月が食べごろで酸度糖度ともに高く、濃くのある味わいである。土地の人々は〃とうみかん〃あるいは〃べにみかん〃と呼んでいる。もっとも、この蜜柑は、琉球から薩摩、肥後、肥前一帯に分布しているという。しかし、とくに天草郡大江村には、集中的に植栽されていた。最近、みかん園経営の不振打開策として、晩柑類の新品種セミノールが、天草にも導入された。これは、アメリカのグレー.フ・フルーツとこの犬江みかんをかけあわせたものである。太平洋の彼方から蜜柑の混血二世が、ふるさと天草へはるばる帰ってきたわけである

 なお、唐蘭船以外では、安永九年(一七八○)、韓国船二十七人乗組み一隻が高浜村西平辰ノ脇に、文政四年(一八二一)琉球国王船十二反帆一隻がやはり同村沖に漂着破船に及んでいる。天草には古代から遣唐使船漂着や渤海船、新羅船など来着の記録があり、中国や韓国との交流は、さらにはるかなる古墳、弥生、縄文の時代にまでさかのぼって考えることができよう。