昭和47年3月、オニは受験生であった。本渡から産交バスに乗り、熊本から寝台特急を乗り継いで2日後、弘前駅に降りた。朝の駅舎の中で聞こえてくる言葉は聞いたことのない津軽弁であった。帰りの指定席を買いにみどりの窓口に行ったが、そこにいた駅員さんの口からも津軽弁が発せられた。指定席があるのかないのか?英語のほうがもっとよくわかったかもしれない。

「こら、まいったばい」 と独りごちながら駅前の旅館に入った。そこで札幌から来たという受験生二人と同室になった。
  私が天草の親との電話で天草弁で話しているのを聞いた彼らが「北海道の日高地方の言葉に似ている」と言った。
なぜ北海道に天草弁に似た方言があるんだ! あれから30年後その謎が解けた。天草弁に似ているんじゃなくて、天草弁そのものだったんじゃなかったろうか。

 

北海道庁所蔵「開拓使公文録」に明治4年浦河に着いた天草人の記録がある。

大邨(村)藩民、天草郡民共、四拾三戸、此ノ人員百六拾七人相募リ、長崎港ニテ猷龍丸相雇ヒ、五月二日同県発帆、同十日風待チノ為メ函館入港、同十三日出帆、同十七・八日頃浦河郡へ着船相成リ候、海上無難、首尾スベテ能(よ)ク候間、御安心コレアルベク候。

ハンの木繁る杵臼の大地

 浦河の港で長い船旅の、疲れを癒すこと二、三日、その間、入港の翌五月十四日には、先遺隊が入植現地の調査を行い、いよいよ十五日、大村団体が西舎(にしちゃ)へ、十六日、天草団体が目指す杵臼(きねうす)へ向った。
  太平洋の水平線を南の方に遠く望みながら海岸に沿って東進、渡船で幌別川のゆたかな流れを渡る。大人も子供も、白米の大きな握り飯をいれた風呂敷包みを、肩から背中へ袈裟掛けにくくりつけている。
  長大な幌別川の流れには驚いた。神威、楽居の山々を源にするシュムベツ、シュマン、メナシュベツなどの諸流をあわせたこの川は、長さ十三里(五ニキロ)、広いところは幅百八十間(三二四b)もあるだろうか。
  天草の百姓たちは、生まれてはじめてこんな大きな川を見たのであった。「うーん、球磨川んごたる太か川じゃのい。」こう言ったのは、中田村(新和町)出身の蓑田代四郎であった。彼だけは、天草時代、廻船業を営んでいたので近国の様子をよく知っている。不知火海の対岸、八代の港にもよく渡海した。だから、眼前の幌別川を、球磨川と比較してみたのである。
  幌別川の左岸に着いてこんどはその川沿いに北上しながら進む。森林の中に熊(ひぐま)や蝦夷鹿が通るケモノ道がつづく。途中のトメナという地点に、二十戸ばかりのアイヌ・コタン(聚落)があった。ドロの木を組立てて作った簡単な草家が散らばっている。
  そのころのアイヌ人は、農業といっても、そこばくの耕地に稗や粟を女たちがつくっているだけで、男たちは、幌別川で漁撈したり、付近の山野で狩猟したり、山菜をつんだりしながら原始的な生活を送っていた。
  幌別川によって形成された杵臼、西舎一連の沖積地。−杵臼とは、アイヌ語のキニウスからきている。ハンの木繁る大地という意味である。ハン(赤楊)の木が繁っている地帯は、また、地味肥沃な湿地帯だったということでもある。あたり一面、うっそうたる昼なお暗き大原始林であった。浦河港から徒歩一刻半(三時間)。ところが、目的地を眼前にして、女たちがいっせいに立ちすくみ、そして泣き叫んだ。見なれぬ風景がつづいたこれまでの旅の辛労も加わって、心理の衝迫を手伝ったようである。

 「あん、日いさま(日光)も通さんごたる森ん中が杵臼かんもい。わしだぁ、なんしいぎゃ、故郷ば捨てて、こがんとこれ、はるばるやってきたっじゃいろう…」「こがんとこっで、どがんすれば生きていかるっ とじゃいろう−草原(くさわら)ば開墾すっとならばってん、あんえらいな森ん中ば、畑にひらけて言わすとじ ゃろかぁ。…」女たちの騒ぎに、男たちも、がっくり落胆して腰をおろし、一様にうなだれるばかりであった。
 こんなところで、どのような暮らしが成り立つというのであろうか。…ややあって長老の本巣甚三郎が大声を張り上げた。「ようし、もう良か。泣くしこ泣いたろば、いっちょう出かきゅうわい。十年すれば、天草さん帰 ってでんよかちゅう話じゃ。三年間な、お上から扶助米ば、くれらす約束じゃ。がまだして開墾すれば、土地はわが(自分の)もん。大地主になるも良し、ひと儲けして錦ば故郷に飾るもよし。ここで閉口垂れてしまえば、いっそづれ野垂死じゃっかあ。・・

以下は独立行政法人 北方領土問題対策協会のホームページより

 1871年(明治4年)6月、天草から21戸の人々が北海道に移住したことが、1894年(明治27年)の九州日日新聞(現西日本新聞)に紹介されています。
 それによると、北海道庁役人の松尾万喜という人が日高郡を巡回中、浦河郡幌別川の両岸に天草の移住地があり、調査してみると24年前に移り住んだことがわかりました。しかも、今ではこの地を立派に開拓し人口も増え西舎、杵臼という村まででき、生活も豊かになっていることはすばらしいことであり、肥後人の北海道移住のさきがけをなすものであると称賛しています。
 移住当時は、人家も道路もなく広々とした荒れ地で、住居を作って開墾に着手するのも相当の苦労が必要でした。特に、冬の寒さのきびしさは、暖かい天草から来た人々にとっては、耐えられないほどつらいことでした。
夏になると、蚊やあぶやぶよなどの虫に苦しめられ、夜はキツネが家の中に入り大切な食べ物を食い荒らすこともしばしばあり、クマやオオカミもいるので油断がなりませんでした。
 こうしたことが続いたので、逃げて帰りたいという声が多くなってきましたが、総代の本巣甚三郎という人が、故郷を出る時の決心を思い起こさせ「これ位の試練に屈してはならない」と一同をさとし、自らも朝早くから夕方遅くまで一生懸命働いて模範を示し、他の人々もこれに負けじと一致団結して働いたので、20数年でみちがえるような立派な田畑の連なる豊かな村となりました。はじめ移住21戸93人であったのが、35戸220人となり、馬を飼い西洋農具を取り入れ、各戸10ha以上の耕地を持ち、収穫も多く豊かな生活ぶりであったと紹介しています。現在日高支庁の浦河郡浦河町西舎、上杵臼となっています。

それから120年後、現在の杵臼の様子は、次のリンクへ

北海道浦河町立浦河東部小学校のホームページへリンクしました

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