◆天草南端の遠見浦はどこ
白い航跡が沸き立ち、漁船が一斉に出港してゆく。海原に沈もうとする夕日の輝きが、大漁を予感させる。天草南端の「遠見(とうみ)浦」――。物語の冒頭に登場する活気あふれる漁港は、どこだろうか。浦のつく港を探した。
「加世浦漁港」(熊本県牛深市)。かつては天草最大の巻き網漁船団の基地で、300隻以上の漁船がひしめいていた。今は10数隻で、がらんとしている。江戸時代から続く網元の当主、平山千歳さん(73)に話を聞いた。
「遠見浦?」「そがん(そんな)場所は聞いたことなか」。平山さんは首をかしげたが、突然、ひらめいたようだ。
「牛深には『遠見山』んあっで、『加世浦』の浦と合わせた地名じゃなかっかな」
主人公真紀、恋人で網元の息子周一と同世代。23歳で網元を継ぎ、6隻の船団を率い、天草灘でイワシの群れを追っていた。
「加世浦だけでも網元が60戸あり、夕方、出漁し、水揚げを競い合った。時化(しけ)れば、1日中、酒盛り。まちには人があふれとった」と振り返る。

寂しくなった加世浦漁港。「牛深ハイヤ大橋」が架かり、時の流れを感じさせる |
加世浦がモデルという平山さんの謎解きは当たっているだろう。山田太一さんは、この漁港を一望できる遠見山(標高217メートル)を重要な場所にしているからだ。山頂で、真紀と周一は「遠見浦」を見下ろしながら、お互いの思いを確かめ合う。
遠見山に登った。元市職員吉川茂文さん(66)がカメラを構えていた。1950年ごろから港や市街地、天草灘の撮影を続けているという。「昔はファインダーを通し、漁師町の熱気が伝わってきたが、寂しくなった」と話す。
◆「真紀しゃんに勇気ばもろた」
敗戦後、“イワシ景気”にわいた牛深。削り節や、にぼしにする数百軒の加工場が軒を連ねた。市北部には魚貫(おにき)炭鉱もあり、人口は増え続け、55年、3万8000人になった。

1955年の加世浦漁港。出漁前の漁船がびっしりと係留されていた(吉川茂文さん提供) |
炭鉱は70年に閉山。イワシ漁も徐々に衰退した。中でもマイワシの水揚げ量は82年の2万4347トンがピークで、次第に減り、2001年はわずか19トン。船団は姿を消した。ブリ養殖に切り替えた平山さんは「魚群探知機など漁具の発達が乱獲につながり、宝の海は枯れてしまった」という。
今の人口は、55年の半分以下の1万8000人。静かな街角で、魚を行商する中村マサエさん(70)がとろ箱を載せたリヤカーを止めていた。「子供も働くのが当たり前だった。6人きょうだいの長女の私は、弟たちを背負い、朝4時からイワシの加工を手伝った後、小学校に行っていた」
物語は1972年4月から1年間、NHK朝の連続ドラマとして放映。中村さんは「3人の子供を育てながら、毎日見ていた。どんなことがあってもくじけたらいかんと、真紀しゃんに勇気ばもろた」と笑った。
ビデオの普及前で、NHKにも録画テープは残っていない。本を開けば、天草の美しい自然と、明るい未来を信じ、必死に生きる人たちに出会え、励まされる。
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