<魚貫炭鉱の記憶>
どべ炭(どべたん)

 石炭はボタ(石)より軽いという性質を利用して、水中で選炭する。石炭は軽いので、簡単に選炭できる。選炭(洗炭の方がイメージにあっているかも知れない)終了後の石炭の粉混じりの水をためておくと、底に粉炭が沈殿する。この沈殿した粉炭をドベ炭と言った。ドベ炭は「かます」に入れて、定期的に各戸に配った。そのドベ炭を丸め、ちょうど大きめの「ぼたもち」みたいにニギリ、天日で乾燥させて家庭燃料として使った。2、3個のどべ炭で風呂が沸いた。もちろんご飯を炊いたり、料理をするにもこのどべ炭を使った。
 意味が転じて、運動会の徒歩競争などで、足が遅く最後からついて走る人のこと。一番最後のことを「ドベ」または「ドンベ」という。
 ここの石炭は、灰分が少ないという性質から石炭を燃やしたあとの石炭ガラが生じない、石炭ストーブのロストル(灰落し)にガラがたまらないので、筑豊や三池炭鉱の石炭と比べて、追加炊きが簡単であった。燃焼時に煙りが出ず(無煙炭)発熱量が非常に大きいために、製鉄等には不向きで、主に練炭やカイロに使う豆炭等の家庭用燃料の原料となった。
(残念ながら当時ドベ炭を並べて乾かすといった風物の写真はありません。)

カナリア  町にカナリアを飼う家が多かった。子供の頃、なぜか「唄を忘れたカナリア♪」を良く歌ったものだった。
カナリアは空気中の酸素量に大変敏感で、ガスが突出したり酸欠になる坑内の採炭作業には不可欠だった。隣の怖いオジサンがかわいいカナリアを飼うという光景が大変不思議な感じがした。
トロッコ  採掘した石炭はケーブルトロッコが運んでいた。学校の帰りにわざわざ遠回りをして、トロッコに飛び乗って遊んだ。今だったら危険だから有刺鉄線で囲まれ立入禁止だったろう。小型のトロッコだった。筑豊とか三池炭鉱でのトロッコとは比較にならないくらい小さかった。
鉱石運搬船 天草からの石炭の輸送は鉱石運搬船が活躍した。当時鉄船を見るのは珍しかった。日頃は大きく見えるマンビキ船が小さく見えた。
豆腐が黒い!

 真っ白なバレーボールが黒く染まる。ワイシャツも肌着も白い物はすべて薄黒くなった。道路も運動場も真っ黒。道路は舗装などしてないから、雨の日は石炭を積んだダンプが黒い泥水を跳ね上げて道路を行き来する。店から豆腐を買って買い物篭に入れて帰っていたら、ダンプとすれちがった−あっという間に白い豆腐に10円玉くらいの黒いシミが点々とついた。泣きたくなった。
そういえば、昔は豆腐を買いに行くときはボールとか「こまじょうけ」をかごに入れて行ったものだった。